私は1973年生まれです。第一次オイルショック、ブルースリー死去、田中角栄政権が前年に退き、大阪万博が終わりいよいよ経済発展に勢いがついたと実感した途端のオイルショックの時代に生まれました。おむつやトイレットペーパーが世間からなくなり紙おむつから布おむつに変更する家庭も多かったことでしょう!小学校低学年の頃はメンコ・スーパーカー消しゴム・牛乳キャップめくり等で遊びました。3年4年生くらいになると、アニメの黄金時代、キン肉マン・北斗の拳・ドラゴンボール・機動戦士ガンダム等5年6年になるとファミコンブームスーパーマリオ・ファミリースタジアム・ドラゴンクエスト等時代はバブル景気まっ盛りでした!
中学になると、受験戦争等という教育第一主義的ないい大学へ行けばいい就職先に勤められる。各家庭の親御さんはこぞって教育に力を注いだと思います。小学校から地元の少年野球のチームに入り中学では野球部に所属していました。チームもたいして強くもなく甲子園を目指すこともなくタッチを観て夢見てた感じですね。(笑)中学生の時は学生の役員などを毎期しておりまして。三年生の春には生徒会長までさせていただきました。その経験は今でも役にたっております。高校は男子高の進学校に進みました。注意力散漫な私は勉強はさぼり気味で、悪い友人と共にタバコを覚え、パチンコを覚え、またパチンコは好景気とのこともあり、新装開店の時はほぼ出玉が多くでてほぼ儲けることができました。いやあハマリましたね、、、女子たちはマハラジャなどのディスコでおどりまくり、札束でタクシーを止めるそんな時代でした。大学生は自分のマイカーがあり、プレリュードやレビン、トレノ86、ソアラ等モテ車種に乗ってるとモテる男子でしたね。憧れました(笑)吉田栄作さんや織田裕二さん等が活躍しトレンディードラマといわれるドラマが高視聴率をとってました。浅野温子さんや浅野ゆう子さんの髪型をまねる女子が多かったですね。日本に勢いのある時代でした!!!そんな時代をしり目に私は暗い青春時代を歩んでいました。勉強もせずに受けた大学受験は当然不合格で、さらに一年浪人したものの当然不合格で、人生詰んだと思いました。何もすることがなくなり、やる気もでず。コンビニでバイトしたり、貿易の仕事を手伝ったり、スナックでチーフとして働いたり何も楽しいことがかかった20代前半、ある時、会社員に勝るのは商売人だ!商売人が社員を雇う、商売人が世間を創る。商売人が世の中をよくする。ということをある会社経営者から聞きました。その言葉は私の心にぶっ刺さりました!!!学歴の無い私はこれしかない!と決意し、学歴のいらない実力の世界で生き残れる営業職を選びました。あらゆる営業職の求人を探し有名な会社を受けてみました。するとなぜか大卒採用の中私だけが高卒で採用がされました。いまだによくわかりません!詐称もしておりませんので!!!正々堂々面接も向かいました。業種は損害保険の営業でした。代理店さんの保険のシェアーを当社へ切り替えてもらう仕事です。当時は担当行政庁が大蔵省で護送船団方式といいまして、どこの保険会社で入ろうが保険料率はすべて一緒でした。その中で弊社へ切り替えてもらうには人間力しかない!!人間力の勝負でしたのでとにかく一番若い私は自動車屋の社長や不動産屋の社長に気に入られる為いろんな事をしました。大阪の日本橋にあった怪しげな10本1000円とかで売ってるAVを社長へもっていったり、きれいなお姉さんのいるお店へ行ったり、とにかくやりまくりました。結果純増率1位をとりました!給料よりもなによりも仕事の先輩や仲間に拍手していただきとてもうれしかったのを覚えています。地下にあった社員食堂で年上のお姉さんたちから昼ご飯をおごってもらったり楽しかったのを覚えています。そんなときです。神戸の大震災が起きたのは。。。その後金融ビッグバンといわれる自由化を推進することになり、保険料も安くなり生損保乗り入れ等中小の保険会社は合併するしか選択肢は無く、そんな中で高卒の私は生き残ることなどできないのは確実ですから、即退職しまして代理店として独立しました。独立すると旧知の親友等が入ってくれてすぐに年収1000万を超えました。その時です。調子乗ってきて怖いものは無い!というくらい勢いがありまして、当時お付き合いしていた女性と結婚し、子供も授かり幸せに暮らしていました。父にもなったことで責任が重くなり、当然プレッシャーもかかり要因はたくさんあるのですが、事業をたたむこととなり、最初の敗北を味わいました。と同時に3歳になった子供とも離婚という形で別れることとなりました。二度目の敗北をすぐに味わうことに。。。。借金もあり、人生どん底へ。。。。このあたりあまり記憶が無いのです。本当につらくしんどかったのでしょう。。そのころなんでも仕事をしなければ生きていけないので、飲食店のフランチャイズ展開を展開する会社に勤めていました。とにかく必死で休みは無く、安月給で、歩合給がつくわけでもなく、ただひたすら店舗運営を続ける毎日でした。本当につらい毎日でしたが、毎日毎日必死で働くことで、すべてを忘れることができたように思います。店舗運営で人との接し方、人とのかかわり方、たくさんの事を学びました。その経験は今も大きなスキルの1つです。3年ほど勤めましたが10年くらいの経験値を得たように思います。その後100円均一の回転すし屋さんへ転職し、すぐに昇進し生活も安定し10年くらい勤めました。この回転すしの話をすると個人が確定しますので飛ばします。(笑)30代も後半に差し掛かろうとしているとき、20代前半で失敗した独立を再度してやろうという野心を持ち続けていた私は一念発起し、居心地の良い、環境の良い職場でしたが、退職をし、不動産会社へ転職しました。理由は一番良い立地の物件を確保するためです。飲食店は立地は一番です。ですで一番離職率の高い、従業員をごみのように扱う、評判の悪い会社へ入社しました。求人広告をだしても入社する人材なんていませんから即入社がきまりました。当然といえば当然ですが、、(笑)どのみち物件があればすぐやめるつもりでしたから何の抵抗もなく働きはじめました。ところが入社したのは不動産会社ではなく、アパート経営を提案する会社の不動産部門でした。ですから自社の物件をメインで客付けする会社で、広く世間で募集されている情報は入ってくることはなかったのです。これでは意味がないとすぐに退職届を提出しましたが、受理されず!1年も勤めていないのに何がわかるのか?と説得されとりあえず一年はやってみることに、資本金をつくったり、しないといけませんし、、、そういう会社ですから働いている人もつわものばかりです。パワハラ、セクハラ、暴力、無休で仕事、残業はサービス、ブラック企業の横綱として君臨していました。そこで働く人もブラックなのです。ですからすぐに芽が出そうな新人は目を付けられすぐに消されるそういう職場!!最悪、最低な人間ばかりが巣くう職場です。中にはものすごく優秀な人材もいたりするのですが、じっとその時が来るのを待っている状況のようにみえました。保険会社の時代理店様を訪問していました。その時のスキルがこの不動産会社で発揮することができました。不動産会社様へ訪問し弊社の物件の客付けをしてもらうことです。しかし、駅前の不動産会社はほぼ先輩社員が押さえ新人にはまわってきません、使い走りばかりです。全く進展しませんでしたが、虎視眈々と水面下では人間関係を構築し、独立しそうな担当者と仲良くなり夢を語り飲み明かしました。そんな人脈が一年後花を咲かせます。とてつもないところから自身のエリアに店舗を出すから担当者になってくれないか?と声がかかりました。そこから快進撃が始まります。先輩社員が私が担当です!と営業をかけても、あなたならこちらは下りる!とまで言ってくれました。必ず私を一番にする!といってくださり、必ず私が日本で一番の仲介会社にすると誓いました!ほんの3か月で支店では先輩社員を抑え首位になり、6か月後には西日本で一位になりました。先輩社員の嫌がらせは日に日に増し、ボールペンを手のひらに突き立てられ怪我したり、先輩に呼び出され、暴言、恫喝!一時間以上も同僚前で立たされ説教をされてました。取引先からの電話も出れない始末、当時は取引先様へずいぶんご迷惑をおかけしました。そんなことがまかりとおる会社ですが、何故一部上場なのか?意味が分からない上場企業とは言えないし、思えないと。。。上場やめればいいのにの思っていましたね!世間も許してはいけないとも思ってました。時代は流れ、やはりダメだと気付いた経営者は本腰を入れ改革をしてきました。当然ついてこれない先輩社員は肩身が狭くなり退職を余儀なくされ、多くの猛者が退職していきました。それでいいんです。マウント取っているだけで実力もないのに生き残れる職場はやがて会社もろとも消滅するでしょう!そのころ猛者が退職し、私が一番社歴の長い社員になりました。3年間トップを走ってきた私をいよいよ追い抜く後輩が出てきたのです。
私はどんなに主力の業者を抜かれてもトップをとりましたし、リカバーしてました。いつか必ずトップを明け渡すそんなときがくる!その恐怖はたまらないんです。昔いた先輩社員の気持ちがわかりますが、後輩をつぶしてトップを独占しても意味はありません。世代交代は新陳代謝です。気持ちよくゆずりましょう!それた王者にしかわからない悩みであり、苦しみなのです。私を抜いた後輩からの相談を受けこのように伝えたのを覚えています。(王者にならないと王者の気持ちはわからないものさ)と、、、きっと今頃そんな気持ちを持っている事でしょう!
今は子会社へ出向し、そこで事務職をしています。普通に平凡な社会人生活です。